++++++++++
その後、僕はいくつもの難関を突破して、ようやく洞窟の一番奥へと続く階段まで辿り着く事ができた。
途中、氷の彫像に襲われたり、地底湖にかかった吊り橋が崩れたりして、幾度となくピンチに見舞われたけれど、そのたびに、すんでの所で不思議な幸運に助けられたんだ。
(もしかして、誰かが僕に手を貸してくれてるのかな? だけど――)
後ろを振り返ってみても、人の姿は見当たらない。
「……ねえ、そこに誰かいるの?」
そう声をかけても、僕の声がむなしくこだまするだけ。
仕方がないから、僕は一人だけで最下層に続く階段をゆっくりと降り始めた。
++++++++++
最後のフロアに足を踏み入れた瞬間、身を切るような冷風が吹きすさぶ。
「うっ――!」
身を縮めて寒さをごまかし、かじかむ指先に温かい息を吐きかける。
無数の氷の粒を含んだ空気のせいで、ほんの数メートル先の風景さえ、はっきりと確認できない状況だ。
そんな中、一歩一歩慎重に足を進めると、広間の奥に人影があるのが分かった。顔ははっきり見えないけれど、僕と同じくらいの上背だ。
(誰なんだろう? この洞窟の中に住んでる人? だけど、こんなに寒いのに……)
僕は寒さをこらえながら、そこにいる誰かに声をかける。
「ねえ、そこに誰かいるんだよね? 僕の声、聞こえてる?」
呼びかけても、返事はなかった。
(もしかして、人間じゃなくて氷像か岩なのかな? だけど――)
そんな事を考えながら、もう一歩足を進めた瞬間。
目の前にいる人影が音もなく立ち上がり、こちらへと手を伸ばして僕の手を握る。その手は、ゾッとするくらい冷たかった。
人影が僕に顔を近づけてくれたお陰で、ようやく彼の正体を確認する機会を得る。
「あっ――!」
彼の姿を目にした瞬間、僕は驚きに目を見張った。
だってそこにいた少年は、僕そっくりの姿をしていたんだから。
「うわっ――!!」
僕は慌てて彼の手を振り払おうとするが、間に合わなかった。
少年の体温が、周りの空気を巻き込みながら急速に低下していく。
冷たさというよりも痛みに近い感覚を覚えながら、僕は凍ってしまいそうな唇を必死にうごめかせる。
「く、うっ……! き、君は、どうして……こんな……?」
すると僕そっくりの少年は、無表情のまま、こう返してきた。
「……これが、君の望んでた事だから」
言葉の意味を問おうとした、その時だった。
「あっ――!」
彼の身体が、何の前触れもなく破裂した。まるで氷でできた像を、鉄の棒で力任せに叩き割ったみたいに。
僕そっくりの少年の身体は、まるで霧のように掻き消えて、周囲を急速に冷やしていく。
そして次の瞬間、僕の身体は氷の塊の中に閉じ込められてしまう。
(僕が……望んでた事? それって、一体……)
手足をじたばたさせ、何とか氷の牢獄の中から脱しようとするが、身体は冷たく凍てついたまま動いてくれない。
指先や爪先から感覚が失せていき、徐々に瞼が重くなり始める。
どうにかして脱出するすべを考えなきゃならないのに、冷え切った僕の頭は、徐々に考える力をなくしていって――。
ずっと氷の中に閉じ込められてしまう未来を想像した、まさにその時。
すぐ近くで、巨大なガラスの器が割れるような音がこだました。
「……ろ! ……っかり、しろ!」
耳元で、誰かが叫んでいる。
だけど体温を失ってしまっていた僕の耳や、考える力を完全になくしてしまっていた僕の頭は、目の前で起こっている出来事を完全に把握する事ができずにいた。
すぐ傍にいる誰かの声は、まるで夢の中の言葉みたいに現実味がない。
「バカ、目ぇ覚ませって! こんなとこで寝たらどうなるかくらい、分かってんだろ!?」
熱い掌が僕の手を取って、何度も何度もこすり、温めてくれる。
それだけじゃ足りないと思ったのか、今度は僕の身体を抱き締めて、そして――。
熱い何かが、僕の唇を塞いだ。
僕の喉の奥に、温かい空気が吹き込まれていく。
「……ディ! ロディ! 頼むよ! 目、覚ましてくれって……!」
まるでお母さんにすがりつく小さな子みたいに必死に、そう叫んだ。
(この子、一体誰なんだろう? どうして僕をこんなに心配してくれてるんだろう……?)
どこかで聞いた覚えがある声だけど、思い出せない。
だけど、こんなに心配かけてしまってるんだから、目を開けなきゃいけない。
そう思った僕は、閉じたままの瞼をゆっくりと開いた。
「ロディ! 気が付いたのか!!」
彼は瞳を潤ませながら、そう言った。
やや茶色がかった髪にブラウンの瞳。年は、僕と同じくらいだろうか。どこかで会ったような気はするけど、はっきりとは思い出せない。
「あれ……? 君、確か……」
だけど、僕の身体はまだ冷え切ったまま。油断すると、また瞼が閉じてしまいそうになる。
「話は後だ! 早く出るぞ。こんな所にいたら、凍え死んじまう」
「だけど、僕……宝探しを……」
「何言ってんだよ! 宝なんかより、命の方がずっと大事だろ!」
彼は強引に押し切るように言って、僕の身体を背負い、来た道を足早に戻り始めた。
++++++++++
少年は、僕が残してきたチョークの粉を辿り、ようやく出口へと辿り着いた。
洞窟の外に広がっているのは、寒風吹き荒れる雪景色。凍てついた風が、しきりに僕の頬を叩いた。
「そろそろ、下ろしてくれても大丈夫だよ。僕、一人で歩けるから……」
僕を背負っている少年にそう声をかけたけど、彼は聞き入れてくれようとしない。
「どこが大丈夫なんだよ。さっき、凍死しかけてたじゃないか」
「だ、だって……僕をおぶったまま階段登ったり、寒い中歩いたりするのって……大変じゃない?」
「……別に」
新雪を踏みしめながら、彼はぶっきらぼうに呟く。
彼は必死に平気なふりをしてたけど、自分と同じくらいの体格の相手を背負ったまま歩くのは楽じゃないって事くらい、僕にだって分かる。
(だけど、一体どういう事なんだろう? 彼は確かに、さっき僕を助けてくれたはずなのに……)
僕を背負っているこの少年は、強烈に無愛想だった。まるで大嫌いな相手を嫌々背負ってでもいるみたいに。
彼の辿った足跡が、まっさらな雪の上に刻まれていく。
よく目を凝らしてみると、あの洞窟へ入る前に僕が刻みつけた足跡を見つける事ができた。
不思議だな、と思った。これだけ雪が積もっても、足跡はすぐ見えなくなってしまったりはしない。
僕が辿った道は、新雪の上にしっかりと刻まれている。
「……あのさ、質問したい事があるんだけど……」
「何だよ」
切りつけるような言葉に、僕は内心すくんでしまう。
このまま質問を飲み込んでしまいたい衝動に駆られたけど、精一杯、勇気を振り絞って尋ねる。
「どうして、僕を助けてくれたの? たまたま通りかかったんじゃ……ないよね? あの洞窟がすごく危険な場所だっていうのは、この世界で暮らしてる人なら分かってるはずだし」
「……ヨアンが教えてくれたんだ。そんな危険な場所に、わざわざ凍えに行こうとする物好きな奴がいるって」
「も、物好きって、ひどいなぁ……。別に、凍えに行ったわけじゃないよ。あそこには、誰も見た事がないような宝物があるって聞いたから……」
「似たようなもんじゃないか。洞窟に入ったら、いきなりつららに刺されそうになるし、壊れかけの吊り橋ごと落っこちそうになるし。危なっかしくてしょうがなかったよ」
「……ねえ、どうして君がその事を知ってるの?」
「うっ――!」
僕の素朴な疑問に、少年は気まずそうな表情で固まってしまう。
「もしかして、あの時助かったのは、君がこっそりジェムの力を使ってくれたせい?」
「い、いや、それは……!」
図星を指されたらしい。彼はしどろもどろになってしまう。耳が真っ赤なのは、多分、寒さのせいだけじゃないだろう。
「じゃあ、どうして姿が見えなかったのかな? ……あっ、ジェムの力を使って姿を消してたとか?」
「そ、そんな事はどうでもいいだろ!? 偶然だよ、偶然!」
「偶然って……そんなはずないじゃないか。あんな場所にたまたま居合わせるなんて、どう考えても……」
「お前の命は助かったんだから、細かい事なんて気にしなくたっていいじゃないか。それとも、あのまま死んでた方が良かったって言うのか?」
「そ、そうは言わないけど、でも――」
「なら、そういう質問は禁止。いいだろ、俺の考えなんて、どうだって」
彼はイラ立った様子で、そう言った。
そして、不意に声のトーンを落とし、こう続ける。
「冒険すんのが楽しいのは分かるけどさ、今日は本当に俺がいなきゃどうなってたか分かんないんだぞ。もうちょい、気をつけろよな」
「大丈夫、僕は絶対に死なないから」
「……俺、真面目に言ってるんだぞ。俺がいなきゃ、あの時どうなってたか、本気で分かんない訳じゃないだろ?」
少年の言葉の端々に、イラ立ちが滲む。
ねぎらうような優しい言葉じゃない。頭を撫でてくれる時のような甘い声じゃない。
だけど、僕は本能的に直感してた。
彼は僕の事を、心配してくれてるんだ。心の底から。
だから僕は――。
「……ごめん」
彼の心の底からの心配に報いるように、真剣に詫びた。
それはもちろん僕の本音でもあったけれど、相反する感情が同時に湧きあがってくる。それは――。
「ごめんね。でも僕……本当に思ってたんだ。何があっても、絶対に死なないって。どんな事があっても、大丈夫だって」
「……あのなあ、お前、まだ言うのか?」
「誰かがきっと助けに来てくれるって――信じてたんだ。だから、死ぬなんてあり得ないと思ってた」
それは、ヨアンでもコーネルでもオズワルドでもなくて。
具体的にイメージできる相手じゃないのに、そう確信する事自体おかしいのかも知れないけど。
「それでも、あのね……ごめん。もしかしたら、笑われちゃうかも知れないけど……僕、ああやって君が助けに来てくれるって、知ってたような気がするんだ」
少年の足が、不意に止まった。
どうしたんだろう。僕の言葉があまりにもバカバカしいから、僕をここに捨てて帰りたくなったんだろうか。
だが、やがて、彼は再び雪を踏みしめて歩き出す。
「……何言ってんだよ、バカだな」
寒いんだろうか。からかうような口ぶりだったけど、少年の声はまるで泣いてるみたいに湿っていた。
「あーっ、バカってひどいなぁ。だけど、本当なんだよ。……こんな風に誰かと冒険してみたいって、ずっと思ってたんだから」
「………」
僕の言葉に、少年は答えてくれない。
ガキっぽいって、内心バカにしてるんだろうか。それとも、僕の言葉が聞こえてないんだろうか。
だけど、こうして彼の背中に触れていると、確信がますます強まっていく。
僕が一緒に冒険したいと思ってたのは、名前も知らない誰かじゃなくて、今こうしてしがみついてるこの背中。他の誰でもない、この少年なんだって。
と、その時だった。
「うっ――!」
目も眩むような光が、少年の右手から発せられる。
「あっ……!」
彼は反射的に、身を強張らせた。明らかに「まずい」と言わんばかりの表情で。
「ど、どうしたの? 今、君の手が光ったけど……。ジェムの光じゃなかったよね?」
「な、何でもない! 何でもないから!」
彼は激しくうろたえて、僕の質問を強引に遮る。
「何でもないようには見えなかったよ。君、一体……」
「いいから! さっさと家に戻るぞ。空飛ぶからな!」
彼の赤いジェムが輝くのが見えた。と同時に、僕達の身体がふわりと浮き上がり、凄まじいスピードで吹雪の中を駆け抜け始める。
きつく僕を繋ぎ止める腕が、ひどく温かかった。
++++++++++
家に戻って来た後も、彼は僕の傍に付いていてくれた。
ジェムで温かいミルクを用意してくれたり、毛布をかぶせてくれたり。
ぶっきらぼうなのに過保護なお母さんみたいで、何だかおかしかった。
そして夜になって、眠りの中で、僕は不思議な光景を目にしたんだ。
++++++++++
夢の中には、あの少年がいた。
彼はなぜか頬を赤く染めながら、妙に尊大な口振りで呟く。
「き、きっとロディの言う“好き”と、俺の“好き”は違うんだろうな」
僕は彼の言わんとする事を理解できず、首をかしげるばかり。
「えっ? “好き”っていう気持ちには、種類があるの?」
すると彼はあからさまに僕をバカにするような口ぶりで、こう切り返してくる。
「と、当然じゃないか。ロディはガキだから分かんないのかも知れないけど」
「ガ、ガキって言わないでよ。君だって“Laughter Land”にいるんだから、ガキじゃないか」
僕はムキになって、少年の言う「好き」の意味を尋ねようとするが、彼はなかなか答えてくれようとしない。
だけど目の前にいる彼は、すごく自然でのびのびした顔をしてて――。
さっき僕をおぶってくれてた時の険しい表情とは、まるで別人みたいだった。
やがて視界が歪み、僕が眠りに落ちる寸前とそっくりな風景へと変わる。
だけど目の前の少年の表情は、穏やかだ。
僕の胸の中には、彼への限りない信頼が広がってて、ずっとずっと近くにいたいって心の底から思っていて。
「……遅くなっちゃったね。そろそろ寝ようか」
僕はごく自然に、そう呼びかけていた。
「ロディは寝てていいぞ。俺、こっちでお前の寝顔見てるから」
僕は何度も「一緒に寝よう」って誘ったのに、彼はなかなかベッドに入って来てくれようとしなくて。
もしかして僕と一緒に寝るのが嫌なのかと思って、少年に問い掛けてみた。
すると彼は、顔を真っ赤にしながら、ひどく言い出しにくそうにして――。
「何て言うか……ロディとすごく、くっつきたくなって、どんな感じなのか確かめたい気分なんだ。病気みたいに」
三たび、風景が入れ替わる。
夜の風景の中、僕はたった一人で、揺らめく湖面を見つめていた。
彼なら、絶対に心配して追いかけてきてくれるって事ははっきり分かってたけど、どうしても目で確かめてみたくて、彼の言葉を聞きたくて。
葉擦れの音や風の音を聴きながら、僕はただ待ち続けていた。
大丈夫。
彼ならきっと、僕との約束を守ってくれる。
だって彼は、僕の事を好きだって言ってくれたじゃないか。
ずっと一緒にいてくれるって言ったじゃないか。
彼が、僕との約束を破ったりするはずないじゃないか――。
++++++++++
目を開けた時、視界に飛び込んで来たのは見慣れた暗がりの天井。
僕が寝ていたベッドの傍で、誰かが嗚咽を漏らしている。
――そうだ。僕は知ってる。
目の前で、シーツに突っ伏して泣いているのが誰なのか。辛さも痛みも全部押さえ込んで、何でもないふりをしてた彼の本心がどこにあるのか。
「……ディック?」
僕の呼びかけに、彼――ディックは、ビクッと身を跳ねさせた。
目を見開いて驚きの表情を浮かべ、震える声を漏らす。
「お前……思い出しちまったのか?」
彼の問いに、僕は静かに頷いた。
するとディックは拳で涙を拭って立ち上がり、僕の家を出て行ってしまおうとする。
「あっ、ちょっと! どこに行くつもりなのさ!?」
僕は慌ててその背中にすがり、引き止めようとする。
「……ギュレッドの所だよ。お前の記憶、全部消してもらわなきゃ」
「消すって、どうして? 僕、そんな事頼んでないじゃないか!」
「そうしなきゃならないんだよ! 思い出しちまったんなら、分かるだろ? このままだと、お前――」
「君こそ、どうして忘れちゃってるの? 僕、君に言ったよね? 君の事、絶対忘れたくないって」
「それは――!」
ディックは、あからさまにイラついた表情で僕を睨む。
次に飛び出してくる言葉くらい、予想できる。彼が僕を心配してくれてる事くらい、言われなくたって分かってる。
だけど、それでも僕は――。
「……どうして君は、僕のお願い、無視しようとするのかな。好きな人に約束を破られて、思い出も全部なくしちゃうのって、どんな気持ちになるか分かる?」
「っ――!」
僕の言葉が、ディックの心に深く突き刺さったのが分かった。
だけど、言わずにはいられなかった。思い出そのものがなくなって、辛いと思う器官そのものをもぎ取られてしまってはいたけど、だからって完全に痛みを感じなくなる訳じゃないんだ。
それはきっと、新雪に刻まれた足跡のようなものだったのかも知れない。新たに雪が積もって見えにくくなったとしても、足跡そのものは、ずっとそこに刻みつけられている。
「……ディックは、ずっとそうだったよね。僕に本当の事を教えてくれようとしないで、辛い事から遠ざけようとするだけで。僕が本当にして欲しい事は、してくれようとしないんだ」
「だから、それはっ――!」
「僕が、ガキだから? ガキとした約束だったら、破っても平気なんだ!?」
「そうじゃないって! 俺は、お前が死んじまったり、辛い思いをするなんて嫌なんだよ!」
ディックの悲鳴のような叫び声が、こだまする。
今まで懸命に抑えこんで来た本心を全て吐き出すみたいに悲痛な口調で、彼はこう続けた。
「だってお前、ずっと思ってたんだろ? 苦しいのは嫌だって。空を飛んで、好きな事だけして、楽しい時間を過ごしたかったんだろ? だから俺は……」
確かに、彼の言う通りだ。
物心ついた頃からずっとあの白い部屋の中しか知らなかった僕は、強く強く願ってた。
空を飛びたい。痛い思いや苦しい思いなんてしたくない。好きな事だけして、楽しい時間を過ごしたいって。だけど――。
「ディックと一緒にいられるなら、空なんて飛べなくてもいいよ」
今の僕は、心からそう思ってる。
ディックはまるで、僕の言葉の意味が理解できないみたいな瞳でこちらを見つめていた。
「辛い事とか苦しい事は、好きじゃないけど……それでも、そうしなきゃディックと一緒にいられないっていうんなら、我慢する。だって僕、ずっとディックと一緒にいたいから」
「だけど……」
「やっぱり、駄目なのかな? また、約束破られちゃうのかな……?」
僕の言葉を耳にして、ディックの瞳が潤んだ。
そして、突き上げてくる激しい感情のまま、僕を強く抱き締めてくる。
「っ……ディック――?」
肺を抱き潰されそうなほどの、強い強い抱擁だった。
彼は息を吐き出しながら、小さく呟く。
「……どうして、裏腹なんだろう」
「えっ?」
「好きなのに――傷つけたくなんてないのに、どうしてこんな事になっちまうんだろう。好きなのに、どうして望んでる事をしてやれないんだろうな……」
背中に回された腕や息遣いから、ディックの内心の葛藤が伝わってくる。
本当はこんな事をするべきじゃないって思ってるんだろう。
「僕は、君が思ってるほど弱い人間じゃないよ。僕が向こうでどんな風だったのかくらいは分かってる。その事で、辛くなったりなんてしないよ」
少しでもディックの心に突き刺さったトゲが和らいでくれるようにと願って、そう口にする。
「あの洞窟で、僕そっくりな顔をした子が言ってたんだ。僕が望んでた事を叶えてくれようとしたんだって。その意味が、分かった。……君の事を忘れてる間も、僕はずっと君に会いたかったんだよ」
そう答えると、ディックの腕に力が込められた。
「やっぱりロディはガキだ」って思ってるんだろうか。しょうがない奴だって呆れてるだろうか。
だけど、それすら口にしないまま、ディックは顔を近づけてくる。
そのまま僕の顎を押さえつけて、まるで噛みつくようなキスをした。
「んっ――!」
僕が「いい」とも「嫌だ」とも言わない内に、彼は舌を絡めてくる。
「んぅ……んっ、く……」
もどかしそうに僕の身体を抱き締めて、掌で辿りながら、何度も何度もキスを続ける。
唾液が互いの口中で絡み合い、もつれ合った。濡れた音が口元からこだまする。
唇が離れ、ディックは苦しそうに息を継いだ。
「悪い、いきなりキスしちまって……」
僕の身体を抱き締めながら、ディックは本当に申し訳なさそうに言う。
「う、ううん、嫌じゃなかったから……平気だよ」
「……本当は、ロディみたいなキスがしたいんだけどな」
「えっ?」
「ロディは、誰かとこんなキスしたいとか、身体に触りたいとか……思わないだろ? ロディが誰かにキスするとしたら、ほっぺたにする軽いやつとか、唇にするんでも、ただ触れるだけとか……そういうのだよな?」
まるで悪さを咎められたみたいな、沈んだ口調だった。
「俺は、駄目なんだ。したくなっちまうんだ。ロディがするようなのじゃなくて、今したようなのを、何回も……。昔はロディみたいに、すごく純粋な気持ちで『好きだ』って言えてたはずなんだけどな。いつの間にかそういうの、忘れちまってた。俺の『好き』は、ロディみたいに綺麗な『好き』じゃないんだよ」
どうしてなんだろう。僕を抱き締めているディックの腕は、ひどく震えていた。
嫌だなんて一言も言ってないのに、それでもこんなに辛そうな顔をしてる。
きっとディックは、僕が彼の言葉を完全に理解してあげられていない事を知ってる。それが、辛いんだろう。
「『好き』って気持ちに綺麗なのと汚いのがあるなんて、僕、聞いた事ないよ」
「……あるんだよ。ロディはガキだから、分かんないだろうけど」
ディックはまるで拗ねたみたいな口振りで、そう言った。
「でもディック、昼間は僕を助けようとしてくれたよね。自分も凍えそうだったのに、気にしないで助けてくれた。……あの時のディックの気持ちは、汚いの?」
「それは……」
「もしディックが来てくれなかったら、僕、凍えて死んでたかも知れないんだよ。君のお陰で、僕は今こうしてるのに。それでも、君の気持ちは汚いのかな?」
ディックの唇が、再び僕の唇を塞いだ。
「んっ、うっ……う……!」
掌が僕の背をなぞり、胸をまさぐり、身体のラインを丁寧に確かめていく。
触れ合ったままの唇から、ディックの苦しげな吐息が漏れた。
それが、何だか不思議だった。触れられてるのは僕で、ディックじゃないのに、どうしてこんな苦しそうな顔をしてるんだろう。
「んっ……! ど、どうして……耳、噛むの……?」
耳朶を甘噛みされ、そんな疑問をぶつける。
「ロディがどういう反応するかなって思って……。気持ちいい?」
「気持ち……いいっていうより、くすぐったいよ……」
ディックの舌先が、複雑な形をした襞を辿る。
彼の掌が、もどかしそうに僕の上衣をずり上げた。そして、指先で胸の突起をまさぐる。
「く、あっ……ぅ……!」
もどかしいようなくすぐったさに、思わず声が漏れる。
鼓動が激しくなり、思わずディックにしがみつくような格好になってしまう。
「……ロディ、前にした時より反応良くなってないか?」
「そ、そう……なの? 自分じゃ、よく……分かんないよ……」
ディックの手が僕のズボンにかかり、緩め始めた。
やがて僕の下半身を覆い隠していた物が、剥ぎ取られてしまう。
いや、驚くべきはそれだけじゃなく――!
「あっ……! デ、ディック、そんな……口なんてつけたら……!」
「ん、ちゅ……ぴちゃ……いいじゃん、俺がしたくてしてるんだから……」
熱くて柔らかい舌先が、僕の分身を丁寧になぞる。
震えに似た感覚が背筋を撫で回した。濡れた粘膜に擦られ、僕のその部分はさらに硬さを増していく。
「だ、だけど……多分、おいしくないと思うよ……? 食べるものじゃないし……」
「ぷっ……」
僕の受け答えがよほどおかしかったんだろうか。ディックは思わず笑いをこぼす。
「ああっ! どうして笑うの? ひどいよ……!」
「わ、悪い悪い。ロディの答えが面白かったからさ。……本当、何も知らないんだな」
「そ、それは……しょうがないじゃないか。君が言う通り、僕はガキで……君がどうしてこういう事をしたいのかも、はっきりとは分かんないんだから」
するとディックは僕に抱きついてきて、頭を撫で始めた。
「……違うんだ。何も知らないって事が、羨ましいんだよ。知っちまったらもう、知らなかった頃には戻れなくなっちまうし」
そう言うディックの口調には、すごく実感がこもってた。
僕をからかったり意地悪するつもりじゃなくて、本気でそう思ってくれてるんだろうか。僕にも、ディックに羨ましがられるような部分があるんだろうか。
「ロディ、ベッドに手を付いて、こっちに背中向けてくれるか……?」
「えっ? だけど……僕、こんな格好なんだよ?」
「……知ってる。だから、見たいんだ」
今の僕はズボンを脱がされ上衣は纏ったままという、極めて中途半端な格好だっていうのに、ディックは気に留める様子もない。
だけど、僕が立ち尽くしたまま目を丸くしているのを見て気まずくなったんだろうか。ディックは罰が悪そうに咳払いをする。
「も、もし、どうしてもしたくないっていうんなら、無理しなくてもいいけどさ」
「う、ううん、どうしてもって事はないんだけど……」
「けど?」
「ディックの『好き』って、変わった気持ちなんだね。僕、よく分かんなくなってきちゃった……」
言いながら僕はベッドに手をかけ、腰を高く上げた。
ディックの手が臀丘を軽く広げる。そして――。
「あっ、ちょ、ちょっと……! ディック!?」
生温い息が臀部の中心に触れ、僕は思わず身をすくめる。
だがディックの舌と指先が僕のその部分をなぞり、和らげ始める。
「大丈夫だから、そのまま、じっとしてて」
囁くように言いながら、ディックは愛撫を続けた。
「んっ、うん……!」
僕はシーツに顔を埋め、頷く仕草をする。
初めてじゃないから、強烈な不安を覚える訳じゃないけど……。
こういう事をする時、ディックはどうして別人みたいになるんだろう。
「く、んぅ、あっ……う、あぁっ……!」
指先で身体の奥を広げられる感触に、思わず声が漏れた。
「ロディ、中……感じるんだ?」
「く、あっ、う……! わ、分かんない……けど……」
「そうなのか? すごく気持ち良さそうな声、出してるけど」
ディックはまるで意地悪するみたいに、指先で何度も僕の中を往復する。
「ん、あっ……う……!」
そのたびに腰が引きつって跳ね、喉奥から声が漏れた。
「なあ、ロディ、そろそろ……いいか?」
「んっ、うん……」
背後から問い掛けられ、僕は小さく頷く仕草をする。
そして次の瞬間、熱い楔が僕の中へと打ち込まれた。
「く、うっ……!」
強烈な圧迫感に自然と身体が強張ってしまい、ディックを押し戻そうとしてしまう。
それに抗うように腰を進めるたび、入り口が激しく軋む。
「悪い。痛い……よな?」
吐息混じりの気遣わしげな声で、ディックが問い掛けてきた。
だけど僕は無言のまま、首を左右に振る。
「ううん……。僕、大丈夫……だから……ディックがしたいようにして……」
痛みがないと言ったら嘘になる。
だけど今はこうして、身体の奥深くでディックを感じられる事、それ自体が幸せで――。
「く、うっ、あ――! ディック……く、あっ!」
僕を内奥から揺さぶるディックの動きが、次第に速度を増していく。
「ロディ……んっ、う……! 好きだよ、ロディ……! 俺、もう……!」
やがてディックのものが、僕の中で激しく脈動する。そして――。
「んっ、あ、あぁああっ――!」
あの晩と同じ、熱い体液が僕の中へと吐き出された。
++++++++++
それから僕達は、窓の外でこだまする虫の鳴き声に耳を傾けながら、のんびりした時間を過ごしていた。
僕が手を繋いだり身体をくっつけようとすると、ディックは驚いたような気恥ずかしそうな表情になる。
「ディックって、変わってるよね」
「……まさか、お前にそう言われるとは思わなかったな。俺のどういう所が変だっていうんだよ」
「だって、ああいう事をしてる最中は、恥ずかしさなんて全然感じてないみたいなのに、こうやって身体をくっつけてるだけで照れた顔になるから」
「それは――何ていうかほら、ああいう時はその……恥ずかしいとか照れくさいって感覚が、吹っ飛んじまうっていうか……」
「どうして?」
「どうしてって……」
僕の問い掛けに、ディックは口ごもってしまう。
答えらしきものは分かっているのに、どう説明したらいいのか困り果ててるみたいだ。
やがて彼は考えるのをやめて、僕にそっとキスをする。
「――好きな奴としてたからに決まってるだろ」
答えになっているようでいて、微妙にはぐらかされたような答え。
以前ディックは、言ってたっけ。僕の「好き」と、彼の「好き」は違うんだって。
ディックの「好き」は、僕が抱いてる気持ちよりずっと複雑だって事なんだろうか。
「もう、寝ろよ。どうせ明日も宝探しに出かけるつもりなんだろ?」
ディックはまるでお兄さんにでもなったみたいに、僕を寝かしつけて、乱暴な手つきで布団をかぶせてくれた。
ぶっきらぼうだけど、言葉や表情、仕草の端々にディックの優しさが見え隠れする。
だけどこうして優しくされると、不安が募った。
「寝てるうちにギュレッドを呼んで、また僕の記憶を消しちゃったりしない?」
「……しないよ」
「本当に?」
「俺の言う事なんて、もう信じられないか?」
「……だって僕は、一度君を忘れてるんだよ。大切な人の事を忘れて、ただ生き続けるなんて――もう絶対に嫌だ」
僕はよっぽど不安そうな顔をしてたんだろう。
ディックは申し訳なさそうな表情を浮かべた後、そっと僕の手を取る。
「約束するよ。俺はずっと、お前の傍にいる。――止まった時間の中じゃなきゃ生き続けられないんなら、俺がお前の時間を止めてやるから」
もしかしたら僕を安心させる為に口にした、でまかせなのかも知れない。
けど、その口調は確信に満ちていて、触れている手の温もりがひどく優しかったから。
僕はディックの言葉を信じる事に決めた。
明日も明後日もその次の日も、ずっとずっとディックと一緒にいられるんだって、信じてあげる事にしたんだ。